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岡崎の城をめぐる ブログトップ
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1086滝城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市滝町。


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滝に中世城があった。滝脇松平の3代乗孝が築城し、その子乗吉が居城としたらしい。詳細はわからない。

滝には滝山寺という古刹がある。天武天皇の御世に創建された1300年の歴史を刻む、かつての大寺院である。滝山寺のある地域に、中世城などが入り込む余地があったのかと、ちょっといぶかしく思う。

天台宗の寺だから、比叡山みたいに武装化していたのだろうか。用心棒的に付近に城を築いたのだろうか。それを、松平氏の庶流である滝脇松平3代乗孝が買って出たというところなのか、そんなふうに想像してみた。

ある話によると、手前の青木川の向こうの日陰地区に滝城はあったらしい。滝脇松平の城も(別の)日陰町にあるから、同じ日陰の地名で、ひょっとするとそうかもと思った。

ただ、城の遺構も雰囲気も何も残ってない。

かつての大寺院も今はわずかな建物があるばかりだ。

国の重要文化財に指定されている本堂。県内最古の建物だ。

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近くには5代将軍綱吉寄進の鐘堂がある。

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また隣接して滝山東照宮がある。小さな社ではあるが、3大東照宮に数えられる。

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そして、少し離れたところに三門がある。

城からは離れるが、伝統文化を感じるよいところである。

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1078上和田城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市上和田町南屋敷。


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住宅地の片隅に碑がある。

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「和田城用心壕跡」とある。このあたりに上和田城があって、堀跡があったのだろう。しかし、今は偲ぶ痕跡は何も感じられない。

そもそも、この碑がどういう謂れで建てられたのかもわからない。民家の庭の片隅にあって、写真はちょっと撮り難い。

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上和田は大久保一族の所縁の地である。関東から三河国上和田に土着し、その後宇津氏、大久保氏と改姓した。松平氏を古くから支えた一族のひとつだ。

近くの上和田公民館には大久保一族発祥の地を示す大きな碑がある。

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この地で、大久保忠俊、大久保忠世、大久保忠隣らが生まれ活躍した。

あの彦左衛門で有名な大久保忠教もこの地で生まれた。

ここの南に妙国寺という大久保氏の菩提寺がある。



氏祖と伝わる宇都宮泰藤の墓がある。

大久保党の熱い声が響き合うようだ。

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1069法性寺城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市法性寺町上屋敷。


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岡崎市史には法性寺村古屋敷という城館があり八田森右衛門が領していたことが記されている。中世の館城があったことだろう。

ただ場所や詳細はわからない。法性寺(地名)なら法性寺(寺)だろうということで法性寺を訪れた。

法性寺は平安中期、長和5(1026)年に天台座主であった暹賀(せんが)が創建し、中世には七堂伽藍と一山六坊があり大変な勢力で、和田山法性寺の号が地名にもなった、ということである。

そして、その内の大日堂にあたるのが、今残るお寺となった。

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そこに、館城がどう絡んでくるのかは、もう空想の話でしかない。

お寺もごく普通サイズ。それでも伝教大師の「一隅を照す此れ則ち国宝なり」の言葉が刻まれ、天台宗のお寺なんだと思ったが、盛時の面影はない。

お城の遺構や痕跡も感じられるものはない。

でも、法性寺町の法性寺たる由縁の法性寺を訪ね、往時を偲ぶのであった。

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1048宮石城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市宮石町小屋野。


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案内は何もない。だからわかり難いかもしれない。市内方面から行くと県道338号を鋭角に曲がる小道がある。そこを登る。

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そこが私有地なのかもしれないが、空地になっている隅に車は停めさせてもらった。

2階屋の新しいが人気のない建物があり、その向かいあたりから登る。

以前訪れた時は、もっときれいになっていたが今は荒れていた。

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その道を少し登った右手が宮石城だ。地図で見ると尾根の突端部分になる。

あまり城らしくはない。

削平地になっている。曲輪だったのだろう。

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しかし、ここは碑や案内がいっぱいある。

まずは一番奥にある城址碑。

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石灯籠と井戸。

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石灯籠には、何やら宮石松平のことが記されている。

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井戸の石の囲いは、整備した時に置かれたとは思うが、往時もこんな感じだったのだろう。のぞいてみると、井戸の石垣が残り、水もあるようだった。

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宮石松平のことを記したもの。

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磯谷家由緒碑、その裏面には系図も示されている。

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これら一連の整備は磯谷さんの手でおこなわれたようだ。

しかし、磯谷家由緒碑がありながら、宮石松平家とどう繋がりがあるのかわからない。隔靴掻痒の思い。

多分、子孫の方なんだろう。松平から磯谷へと変わったことは、歴史の表舞台の出来事ではない、または、はっきりとわからないので記載を遠慮したのだろうか。

そして今、荒れ果てたままになっているのは、どうしてなのだろう。

気がかりで、もう少しそのあたりがわかれば、と思うのであった。

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1038大河内城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町大河内。


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「三河名勝志」に「大平の北・大河内に古城跡あり」とあって、大河内金兵衛の居城があったと伝えられている。が、詳細は不明だ。

東名高速道路のインターチェンジ付近ということだが、おそらくその工事で、名残りみたいな痕跡も全部失われてしまったのだろう。

地図を見ると大河内の地名があり、感動する。多分、ここらが大河内城と思って写真を撮る。なんだかバカげた行為にも思えるが、ただの景色が、厚みをもって感じられる。地元への愛着が増すというものだ。

詳細不明の城を追うのも、まあ、それなりに楽しいものだ。

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1013土井城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市土井町城屋敷。


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マークしたのはこちらです。

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土井城城主本多秀清と早乙女一族の墓があります。かつては田んぼの中にあったような覚えがありますが、まわりはすっかり宅地化されてしまいました。

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  土井城主本多豊後守秀清公廟所

 本多秀清は、松平長親に仕え、功あって明応6年(1497)、碧海郡土井村を賜ります。同7年9月に没していますが、清重・信重・広孝と続く家系が本多豊後守家です。
 信重の時、この地に城を築き、周りに堀を巡らしました。秀清より清重・信重になって松平信忠・清康によく仕え、信重は、吉田城攻めの時、23歳で御油の縄手で討ち死にしました。その子弘孝は、(松平広忠から広の字を賜りました。)吉良東条城攻めに敵将を討ち取り、一向一揆の時には、土井城を守り、永禄7年(1564)の田原城攻めに戦功を立て、そこの城主となり、土井城を離れました。この間本多家は、66年間、土井城主として土井の地を守りました。以後、掛川の戦い、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻め、小牧長久手の戦いに活躍しました。その子康秀は、土井の城で生まれ、16歳の時から父に従い、小田原城攻めの功により上州白井2万石の城主となり、慶長6年(1601)、岡崎城主となります。以後、康紀・忠利と3代44年続きます。

  早乙女一族の墓

 この墓は、土井利勝の先祖である早乙女一族の墓であるといわれています。
 土井利勝は、元亀4年(1573)、遠江国浜松に生まれ、幼少時代を土井で過ごします。数え年3歳の時、初めて主君家康の対面を許され、家康より「土井松次郎」を名乗るよう直々に命じられます。その後、秀忠が生まれると7歳にして子守役となります。
 家康・秀忠・家光の三代に仕え、下総国古河16万石城主になり、幕府の大老職に登りつめます。江戸幕府の基礎を築き、幕藩体制の確立に貢献しました。寛永21年(1644)、71歳で亡くなりました。

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その本多秀清の墓がこちらです。

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その左横後ろには早乙女一族の墓です。

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このあたりもお城の一角だったかもしれませんが、土井城は特に遺構などは残っていません。

依然は、少しの高台と周りがお堀の跡らしい深田になっていました。

城屋敷にあるこちらの左のお宅が城跡ということです。

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そして、もう一ヶ所、居館跡と伝わるのが西番城あたりです。新しくできた土井公園の斜め向かいです。今は宅地で、全くそれらしくはないのですが。

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城屋敷の城とどんな関係であったのか、よくわかりません。

本多の家も平八郎忠勝の系統、正信正純の系統、作左衛門重次の系統などとあって混乱しそうですが、それぞれ別家で親戚でもないようです。しかし、ここからでた本多康秀が初代岡崎藩主となるわけで、それを思うと少し感慨深いものがあります。

この地で育った土井利勝が、土井城でどうしていたのかもわかりません。しかし、土井利勝は異例の出世をします。

そんな土井利勝を顕彰してか、社宮司社には土井氏発蹟地の碑があります。

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0983西大平陣屋 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町西上野。


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かの大岡裁きで有名な大岡忠相(ただすけ)が開設した陣屋である。高麗門と白壁が作られ、小公園になっている。

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大岡越前守が有名で、整備もされているので、よく知人を案内するが、門は西を向いているので、朝は逆光になって撮りづらい。お昼以降がお勧め。

よく見ると少し古い写真には看板がない。

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調べてみると、2013(平成25)年4月7日の家康行列が行われた日に、茅ヶ崎市の方々とともに看板設置式を行って掛けられたそうだ。茅ヶ崎市は元々の大岡忠相の知行地、その縁で岡崎市と茅ヶ崎市はゆかりの町として提携している。

茅ヶ崎市では大岡越前祭が行われている。そのように敬愛されていることは嬉しい限りだ。

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しかし、史跡の整備としては今いち感がぬぐえない。もっとも、1万石の譜代大名に昇格したとはいえ、江戸に常駐する定府大名で、この陣屋には10数名が詰めるだけのものであったらしい。だから、その所縁を偲ぶ、そんな場所と思った方がいい。

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稲荷社がある。現社殿は2002(平成14)年に再築されたとあったが、確か以前からここには稲荷社があった。大岡家所縁のものである。

だから、単なる小公園ではなく、やはり由緒ある所縁の地。

大切にされた思いがここにはある。

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0976多門氏城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町天神前。


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大平八幡神社がある。ここに多門(おおかど)越中守の居城があったと言われる。別名、大平城、大平村古城、大平西城。

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敷地は広い。参道を行くとゆるやかな坂になっており、本殿あたりは高台になっている。居城を構えるのにふさわしい気がする。

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左手は竹藪であり、やはり段差はあった。

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土塁・堀が残っていたらしいが、今は遺構はない。

城主、多門伝十郎重信は本多忠勝の寄騎衆であった。が、三方ヶ原の戦いで戦死。子供の多門平七郎重信は大坂夏の陣後、400石を領した。

しかし、その頃には三河にはいなかったことだろう。

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八幡神社の創建は不明ながら、安永6年にこの地に遷座した記録があるという。

廃城となったこの地が、ちょっとした特別な地として残っていたのだろう。

今はただ静かな境内だった。

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0951小針城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市小針町。


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ここに「阿部城内跡」の石碑がある。

ただこの石碑は、小針から形のよい石が出たので、石碑を作って建てたという。戦前の話。そして道路の拡張があり、今の場所に落ち着いた、それが昭和18年のことだそうだ。

東側から来れば集落の入口ともいうべき場所で、城の門前になるかもしれない。

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室町中期、阿部忠正が小針城を築いた。

詳細についてはよくわからない。が、小針には城を思わせる地名が残っている。城跡・池城・屋下・本丸・馬々西・的場、想像をかき立てる。

私としては、県道230号線の圓慶寺付近が、集落の中心でもあり、周囲から見れば高台のようで、館城があったように感じる。

城跡の地名があり、以前は土塁が残っていた。高さが4~5m、上は平地で60平方mほどの面積で、櫓台のような土塊だったらしい。今は残っておらず、私も目にしたことはない。残念だ。

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南には本丸らしからぬ景色ではあるが、本丸という地名がある。

北には神明社があり、ここも城があったと伝えられる。

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神社裏手には堀跡ともとれそうな地面の段差がある。

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神社近辺も、少し前とではかなり変わってしまった。想像しにくいが、しかし、西の道路など、高低差を考えると北から西へと空堀が回っていたのかなと想像できる。

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そんなこんなで、小針集落には阿部氏累代のかなり大きな館城があったのではと考えられる。

そして神明社東の田んぼに、阿部忠正の墓と伝わる宝篋印塔があった。

今は舳越町の願照寺に移動した。

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ここには阿部家4代の墓がある。

初代 忠正 小針城を築く
2代 正重 松平忠親・長親に仕える
3代 正俊
4代 正宣 松平清康、広忠に仕える
5代 正勝 家康に従い今川の人質にも行く(2歳年長)

小さな墓が2代から5代のものだ。

しかし、普通、初代の墓は小さなもので、功を成し遂げた子孫の墓が功績以上に立派な墓になっているのが、よくある光景。それを考えると、5代正勝こそ、近世大名の始まりであり、その後三河を離れていくわけだから、一番左の小さなお墓が忠正で、順に並び、右の大きなものは5代正勝と思われるが、いかがなものだろうか。

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その後、阿部10代正邦は備後福山藩10万石の大名になる。福山城では阿部氏10代161年の藩主時代が明治維新まで続く。

今、岡崎市と広島県福山市が姉妹都市になっているのも、そんな関係が影響しているのだろう。

有名な日米和親条約を締結した阿部正弘は、この小針城主阿部忠正の子孫だ。

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0933影山城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市上六名町。


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先に紹介した六名城のすぐ北になる。あたりは住宅地として区画され、遺構は残っていない。が、道路沿いのそのあたりは高台になっており、雰囲気が感じられる。

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成瀬氏の城。5代国平が居城したそうだが、詳細はわかっていない。

公卿二条良基二男の末裔と称す成瀬氏。基久が足助荘成瀬郷に土着して成瀬を名乗ることになるが、2代基直が松平初代親氏に仕えるという、松平家中でも古参の一族のひとつである。松平氏の進展に伴い、居城も変わっていったのだろう。

やがては8代正義が家康に従い、正成が江戸幕府開設後、尾張藩附家老犬山城主となる。

そんな成瀬家の中世城館があった。

一本の高い古木があり離れても位置がよくわかる。横の道を進み振り返ると、高台の突端さが感じれて、面白かった。

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