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1241下永東城(奈良県) [城印象記]

奈良県磯城郡川西町下永の下永東城を紹介します。

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こちらの八幡神社付近が下永東城になります。

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案内板があります。

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川西町 町・村の歴史 大字 下永(東城)(ひがしんじょう)

  大字下永(東城)の概要

 下永東城は、旧下永村の旧初瀬川(はせがわ)(現在の大和川)左岸にある東城垣内(かいと)である。下永村は古くは、公式な中世文書にも「下長村」として登場し、その後1700年代に「下永村」となる。東城の地名は、西城(にしんじょう)とともに外敵の侵入を防ぐ砦が築かれたことに由来すると伝えられている。東城には、八幡神社が鎮座している。もとは旧初瀬川右岸東方の小字高堂に神宮寺の白米蜜寺と並んであったと伝えられている。白米蜜寺旧蔵の遺物のうち、仏像は東城の地蔵堂、石造物は東方の教願寺にある。その後、東城に移った八幡神社境内に地蔵堂(収蔵庫)が建てられ、収蔵庫内には、「白米蜜寺住僧厳」の名が印された天明8年(1788)の水船、平安時代の阿弥陀如来坐像・地蔵菩薩立象(国重文)、鎌倉時代の不動明王立像(県文化財)が保存されている。
 又、この八幡神社境内には、江戸時代後期、孝明天王から「日本一の石工」と賞賛された丹波出身の旅の石工「丹波佐吉」の作品(獅子・狛犬)がある。作品の特徴としては、骨格ががっちりしていて、高く胸を張り、大腿部を低くして隙がない。両眼は深く引っ込み、目つきが鋭い。頭部から顎部にかけての巻毛は大きく渦を巻き、流れ毛も豊かで際立って浮き上がり、佐吉特有の細かな技法を見せている。

CN35周年事業 大和磯城ライオンズクラブ贈 平成23年10月9日 LNo52 下永東城自治会

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地域の由来がわかる説明で、風景を見る目も深まります。

城の遺構は何もありません。が、「外敵の侵入を防ぐ砦が築かれた」という言い伝えが地名と共にあったのでしょう。

ま、記念にこんなものを写して納得します。

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説明文後半にもある丹波佐吉の狛犬は立派です。オーソドックスな造りですが、ひと味違うものを魅せています。

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いわゆる無個性と言われる岡崎型のものと思うと、貴賓を感じますね。

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1239結崎井戸環濠(奈良県) [城印象記]

奈良県磯城郡川西町結崎の結崎井戸環濠を紹介します。

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地図からでも堀らしきものが確認できます。

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こちらが結崎環濠です。案内板があります。

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環濠集落

 中世の乱世では、村落が自衛手段として濠をめぐらせた「環濠集落」が発達しました。県内には80余りの分布がありますが、盆地の周辺部よりは標高60メートル以下の低湿地に多く見られます。
 形態としては、村落全体を濠で囲むもの、内部が複雑で小規模な平城的なもの、個人の家屋に濠を巡らせたものです。
 ここ川西町の井戸、南吐田の大字に見られるものは、個人の家屋に濠をめぐらせたものです。
 最近は、自衛の必要がなくなり次第に埋められつつあるものが多く、農業用水として利用されている集落は原形を保っています。

                      川西町教育委員会

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これでは詳細がよくわからない説明です。

この辺りには辻・中村にも環濠があり、この井戸のを併せて結崎3環濠というらしいです。しかし、ここの築城者や築城年代など詳細はわかってないようです。

奈良県の80余りの環濠といわれても、詳細が掴み切れないものが多くて、ちょっとまいってしまいますが、しかし、堀と石垣がきれいで、いい感じの環濠でした。

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きれいなツギ目を見せる石垣は創建当時のものではないだろうと思いますが、居館を囲む感じがよくでています。

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1238野間城(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡能勢町野間中の野間城を紹介します。

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話としては野間館の続きになります。

  1195野間館(大阪府)
  http://mikawanokami.blog.so-net.ne.jp/2017-07-19

麓の館跡を探索し終え、尾根先突端にある野間城を目指します。こちらのパイプ作りの赤い稲生大明神の鳥居をくぐり山道を進みます。

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山道と言っても見失いそうな道です。でも、確かに道は通っている、と言えましょうか。

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全体の2/3くらい登ったところに石灯籠があります。このあたりから、いよいよ城域という雰囲気です。

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その近くに窪みがありますが、これは井戸跡でしょう。

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つづら折れした道を進むと、段曲輪らしき削平地が見えてきます。それが、だんだん、はっきりと大きなものになります。

切岸が明瞭になります。

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いよいよ主郭です。奥に赤い鳥居が見えます。

ここは虎口のようですが、明瞭な遺構ではありません。平虎口でしょうか。

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土壇が明瞭に見えますね。

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白髭稲生御社跡の碑とお稲荷さんや鬼瓦がありました。

神社の創建で城の遺構としては手の入っているところもありましょうが、それでも、お城の中心で一番大切な場所には違いありません。

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主郭には土塁が囲っています。

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主郭とその下の段には土塁のようなものは見られません。切岸で守られています。その斜面の下にこんな窪みがありました。これも井戸でしょうか。

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その登ってきた方面に連なる曲輪の数々もいいのですが、野間城はむしろその背面の遺構が素晴らしいです。主郭背後に大きな堀切があります。

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その複雑な遺構は、写真を見ただけでは解釈し辛いと思われます。堀切2本の間に畝状になる竪堀が左右に付随しています。

横から堀切を見るとよく掘れていますね。

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その奥に畝状になる竪堀。地面が凹んでいるのがわかります。

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縄張図、片手に楽しみました。よくデザインして作られています。

振返って主郭を眺めます。こりゃあ、攻め込み難いですね。

城域も広く、手応えありの野間城でした。

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1195野間館(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡能勢町野間中の野間館を紹介します。

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府道4号野間中の交差点から南に入った圓珠寺の駐車場をお借りしました。ここから野間城・野間中城を見学するには便利です。

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目指す野間城は対岸の高いところです。そして、麓には居館があって、画像では左の旗らしきもののある左の茂み付近になります。城と居館がセットです。

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お寺の東側には田んぼがあって、野間屋敷と呼ばれる場所です。

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野間館と野間屋敷の意味の違いがわかりにくいのですが、野間屋敷は野間館より防御性の低い住居スペースという理解でいいのでしょうか。

もう一ヶ所、この地よりやや北東あたりも野間屋敷と紹介されている資料もありました。ここの方がやや高い場所になるので、それらしく感じるのですが、真偽のほどはよくわかりません。(両場所併せて野間屋敷かもしれませんが。)

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さて、橋を渡り山へと向かいます。まっすぐに進み、左へ折れて尾根先を目指します。田んぼが少しづつ高くなっていきます。こんな石垣がありましたが、これは田んぼのためのものでしょうかね。

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こちらは振り返った風景です。野間の里と言ったところでしょうか。

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山に入り込むと、こんな堀のような水たまりがありました。遺構なのか、気になるところですがよくわかりません。ただ居館跡の位置とされるところと、ややずれてはいます。

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この細長い水たまりの左手という位置に上がりこむと、いきなり削平地が広がっています。

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何か自然地形とは違った広がりで、やはりそれらしい雰囲気があります。

果樹園の跡地、とも思えないか、などと考えてみましたが、周囲には土塁が確認できます。

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あまり高いものではないので、それらしく撮影するのは難しいですね。

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東(更に左)には川があり、深く切れ込んでいます。舌状尾根の先という地形になっています。これなら、さほど高い土塁は不要でしょう。

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ほぼ単郭という構造ですが、上の方は、もう少し曲輪があるようでした。

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こんなところかな、と思って野間城を目指して登りを急ぎますが、その途中にも、段郭のような削平地が続きます。

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ただ四角になり、形が整っているので、ここは後世田んぼとして開拓され放棄されてしまったものでしょうかね。手持ちの縄張図にも遺構とは判断されてないようでした。

それにしても、それなりの規模を感じさせる野間館や屋敷です。

野間城が楽しみですね。

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1192能勢丸山城(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡能勢町地黄の能勢丸山城(摂津丸山城)を紹介します。

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見学を終えてから偶然にも気が付いたのですが、国道477号線東郷バイパス沿い、地図で言えば丸山神社の東、小道に入る入口に案内板がありました。

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   地黄古城 丸山城跡

        大阪府豊能郡能勢町地黄
        標高281m比高50m

 この丸山城は長元年間(1028-37)源頼光の子頼国が摂津から丹波へ通じる交通の要所であるこの地に城を築き能勢氏を称し代々ここを居城とした。
 城郭は北から南へ延びる尾根の先端を深い堀切を設け、尾根を区切り、北より本丸、二ノ丸、三ノ丸、廓など一列に並び細長くなっている。
 史跡は中世の築城様式特有の土塁、竪堀、空堀、帯曲輪等が設けられ防御に優れた山城で幾度も戦いが繰り返されたが、その都度退け、500年余り守り続けた遺構が原形のままで残されている。

 城 名 丸山城(地黄古城)
 所在地 能勢町地黄
 規 模 200m×120m
 標 高 281m
 比 高 50m
 遺 構 土塁、虎口、立土塁、削平地、井戸、竪堀、空堀、堀切
 城 主 能勢氏累代
 年代推定戦国時代

           能勢地黄城築城400年祭紀念事業(2015・4)
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一部表記を修正させてもらいました。熱意はあるのですが、ちょっといただけない感じがする記念事業ではありますが、説明は嬉しいです。

縄張図付きです。

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実際には、清普寺の見学を終えたあと、登城しました。車は、そのまま清普寺の駐車場を利用させていただきました。

こちらから見る丸山城は、丸山に見えます。

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この小山の右1/3あたりに登城道があります。田んぼや害獣よけの電線もあるので、まわりこむように山に入ります。

入口に石造九重塔があります。

鎌倉時代(弘安11(1288)年)のもので能勢氏の武威と経済的な力を感じさせるものです。大阪府の有形文化財です。

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もう少し行くと「史跡城山城跡」という棒杭があります。こんな登城口・登城道ですが、大手口にあたります。

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登ること数分で南郭に出ます。

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振り返ると社が祀られています。丸山神社でしょう。

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社のある北へと足を進めます。背後には切岸状になった削平地があります。

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主郭です。

さほどは広くない削平地で、詰まらない風景ではありますが。

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主郭の周りは帯郭が巡り、よく切岸がわかります。

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北へと、二郭へと、進みます。間に小さな堀切です。

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そして二郭の先は狼煙台跡とありました。うっすらとわかる程度の遺構です。

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しかし、驚いたのはこの突端から覗き込んだ谷です。縄張図を持って歩いているので様子もわかっているつもりなのですが、この落差は意表を突かれました。

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振返ると二郭と主郭との接続部が見えます。この虎口がいい感じに思えます。

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二郭から降りてきて、その先の北郭を見たところです。少し高台になってます。

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しかし、振り返って見る二郭が高い位置です。堀切の案内がありました。プラス切岸ですね。自然地形を利用しているのでしょうが、敵を寄せ付けぬ高さです。

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北郭の周囲も郭があり、防御拠点になっているようです。単純そうでなかなか複雑な組合せです。

そして、その先も大きな落差があり、道路に面していました。

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低い山ですが、その比高を十二分に発揮させているところが素晴らしいですね。

一直線に並んだ縄張で、簡単なようで複雑なところがあって、それは長い歳月を使われたからなのでしょう、またコンパクトな城にも感じました。

再び戻って南郭からの眺望です。地黄城がすぐ近くに見えます。

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1189地黄城(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡能勢町地黄の地黄城(地黄陣屋)を紹介します。

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今は廃校になってしまいましたが、能勢町立東中学の場所が地黄城です。

校門が城の虎口で、石垣が見事です。

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案内板も、碑もあります。

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   地黄城址(地黄御陣屋・丸山新城)

     旗本 能勢氏の居城
     築城 慶長7年(1602)-元和元年(1615)
 
 ここ東郷地域は城門遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化のさかえた土地柄である。
 平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
 戦国争乱は能勢氏にもおよび、天正10年(1582)本能寺の変には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼野原となった。
 城主頼次は能勢を離散、以後領主は高山右近をはじめ、数代を経て天正16年(1588)島津氏の管掌するところとなった。
 能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は、関が原の合戦には東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ1万石余が宛がわれた。
 頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建を手はじめ、ついで新らしく「地黄城」と、城下町の構築に着手した[慶長7年(1602)]。
 普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75メートル・南北110メートル・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。
 城内には御殿・官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がきわ立った。普請完成は元和元年(1615)とされている。
 近世初頭の陣屋城として偉容をを輝かせたが、星はうつりて明治2年(1869)藩籍奉還となるや、旗本能勢氏(4千8石)も累代祖霊の見守る中終焉をつげたのである。

○慶長7年(1602)-元和元年(1615)、丸山城から現在地に新城として築城。
○北側の石垣は「印内積み」といわれ、河原長右衛門宣勝の領民が宣勝助命の恩義のために築く。
○明治2年(1869)12月2日、上地、以後会議所として使用。
○明治8年(1875)第2番小学校(地黄小学校)開設。
○明治12年(1879)-明治14年(1881)能勢郡役所。
○昭和34年(1959)能勢町立東中学校。

清和源氏 頼光流

能勢

国基-国能-保頼-頼綱-頼仲-長頼-頼任-頼連-頼澄-
頼時-之頼-元頼-頼勝-頼明-頼幸-頼次-以下十代を経て明治維新となる。
(寛政重修諸家譜)

   平成6年3月 能勢町教育委員会

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今はここを車で抜けて内部に駐車することができます。

桝形を振り返ったところです。

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というのも、かつての校庭はただの原っぱになっていました。

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その風景に驚かされました。以前訪れたのはもう10年以上前です。確か体育館があって、学校の設備がまだ何かあったような気がするのですが・・・。

校庭の隅には大きな城址碑があります。

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この城址碑の右奥の石垣もなかなかいい感じです。四周を石垣が囲ったという片鱗をうかがえます。

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まだ上の段には廃校になった校舎が残っているのですが、気分は何にもない何にもない、でした。

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かつては、学校ということで気を使って見学したことでしょうが、何もなくなってよかったのでしょうか。

周囲を歩きながら、考えさせられたのでした。

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1186杉原城(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡能勢町杉原の杉原城を紹介します。

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京都大阪の境になります。府道732号線の南側の一段高くなったあたりに仏称寺が見えます。ここの境内に車を停めさせていただきました。

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ちょっとした工事をされていて声をかけると、どうぞ、とのことでした。車は2,3台停めれそうです。またここは杉原小学校の跡地でもあります。

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城の案内板がありました。

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   杉原城址(すぎはらじょうし)

 ここ杉原地区は、能勢町の東の端に位置し、往古より「摂丹」つまり「摂津」と「丹波」の国境にあって、軍事上の要衝の地とされてきた。
 「・・・能勢郡吉野村へ越ス峠マデハ、掘越峠ヨリ山尾ニテ吉野村東山尾ヨリ桑田郡加舎村定杭へ見通ス国境ニ有之候事。慶長7年壬寅3月」
と当時の国境について、「犬甘野村由緒書」に見える。
 また、杉原村を通過する北西への街道は、国境に添って歌垣山の東山麓を通り吉野へ出て、そこから摂津路へ、丹波路へとするのが本街道であった。戦国乱世において、このような土地に城が築かれるのは当然なことである。
 ここ杉原城址は村の中央の高台にあって、鎮守の森として八幡社が祀られているが、その一帯が、まぎれもなく戦国時代の山城の跡である。天保年間の村の古地図に、小字名として「城山」の名をとどめているし、遺構としても顕著に残っている。
 八幡社へほぼ登りつめたところに、屈曲した「虎口」(入口)が見られ、そこを過ぎると、広い「郭」跡に出る。こうした郭跡は、西から押し出した尾根上に6ヶ所残っている。城址の最も高い所には、2ヶ所の「堀切り」と「土塁」が築かれ、さらに「竪堀」の施設があるなど、重要な防御点を示唆している。いうまでもなく、尾根続きの敵兵を遮断するためのものである。「本郭」の両袖には、「武者出し」か「武者かくし」を思わせる遺構もあり、あちこちに残る虎口には、「桝形」を思わせる複雑なものも見られる。
 もともと杉原村は、慶長7年(1602)ごろまでは、丹波国桑田郡犬甘野村(現亀岡市西別院町犬甘野)であった。犬甘野といえば、口丹波に台頭した長沢一族の本拠地であり、杉原城は、その境目城、あるいは砦ではなかったかと思われるが、高橋成計氏は、丹波の数掛城(現亀岡市本梅町)の出城として、吉野城(現能勢町吉野)・杉原城が築かれたという説である。
 築城は、天文~永禄期(1532-1570)の頃と想定されるが、いずれにしても、杉原城は町内の山城の中でも中規模の城郭に入り、遺構としては、氏神の鎮座もあって当初の姿がよく残っている。

   平成12年3月  能勢町教育委員会

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縄張図付です。

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ここからお城まで距離があるようにも思われましたが、尾根先にあるお城の直下というような位置になります。

お城へは、お寺を出てすぐの道を右に曲がり、坂を上がります。

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坂を登ったあたりに登城道があります。正面の石段です。

八幡社があるため、道が整備されているのです。

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山道を進むと虎口にあたります。登り道が折れ曲がり、土塁で桝形が形成されています。これは見事な遺構で、案内板で写真入りで説明がある通りです。

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広い郭に出ました。

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ひとつ上の郭には八幡社が祀られています。広い郭とその郭、そしてその上の本郭。それらの切岸が際立っています。

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本郭です。細長い削平地になっています。尾根先の地形を利用しているのがよくわかります。

途中(全体の奥1/3あたり)が少し高くなっていて、郭として使い分けをしていたのでしょう。最奥は土塁になっています。

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本郭の袖を除くと帯郭が見えます。武者かくしと説明される遺構です。

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見所かと期待してきた本郭背後の堀切は意外と小さいものでした。

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しかし、堀切は確かなものであり、竪堀となって落ちています。こうして、その後ろから、堀切や土塁越しに本郭を眺めても、ああ、山城だなと感じる景色であります。

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コンパクトにまとまったお城で、遺構がよく観察できます。山城って、こういうものとお話しするには、いいお城です。簡単に、こんな夏場でも見学できるので、ちょい寄りにもお勧めですね。

最後はお城の全景を狙ったものです。山を収めるのだから、もっと引いた位置でないとダメでしょうか。

尾根先にある山城です。

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1185余野本城(大阪府) [城印象記]

大阪府豊能郡豊能町余野の余野本城を紹介します。

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国道423号線切畑口交差点を南に曲がります。目指すは、ここから北西4~500mの丘陵のピークです。付近は道は細く駐車できる場所はほとんどありません。駐車には苦労しました。

少し遠くに停めて歩きました。余野本城が見えます。手前が東出丸で、奥が主郭になります。

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東西尾根の南側に着きます。資材置場があり、そのあたりから登れるという紹介もありましたが、それらしいものが見つかりません。とにかく、あの尾根だと決めて山にもぐりこみました。

山すそに田んぼがあるのですが、実は害獣駆除のネットがあってそれを避けて回り込むのに苦労してしまいました。比高はわずかですが、その点では攻略は大変です。ご迷惑をかけないよう、配慮して山に入って下さい。

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まずは端っこからです。東の尾根先のピークを東出丸としましたが、全くの自然地形で、城遺構は感じられません。

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その東出丸から主郭へ向かう方向へ下ってきたところに、堀切っぽい竪堀があります。

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そして尾根を登るように主郭に近づきます。

主郭に近づくと俄然お城の遺構を感じ始めます。まずは一番高い所へと足を運びます。気が付くと、そこは切岸に囲まれた櫓台でした。

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段差としてはわずかですが、その周囲に広がるのが主郭になります。

なにか仕切りを意図したかのような起伏もありますが、この削平地はひとつの曲輪なのでしょう。広い主郭です。

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主郭を歩いて、櫓台から一番遠くまで来ました。周囲はうっすらと土塁がみられます。高さは失われてしまったのかもしれません。が幅はありそうです。

この櫓台から遠い所の土塁には、石も多く見られました。石での補強があったのかもしれません。

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周囲には、上からは帯郭が巡っているように見えました。

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が、確認に降りてみると、横堀がめぐっているというところでしょうか。

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周囲は、見所ある遺構が見られます。横堀の要所要所に竪堀があります。なかでも、櫓台から見て櫓台直下の東の方向にある竪堀は、長そうです。よく掘られています。

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また西側には畝状竪堀が見られます。

わかりにくいでしょうか。現場では大いに感動していました。

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主郭から、北西方面に降りる道がついていて、登城道になるのでしょうか。

その道を進んだところに井戸があります。これまた、明確な遺構です。

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振返って見た景色です。井戸の向こうは土橋になっています。上のラインが主郭になります。

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その先はいうとこんな様子です。削平された曲輪のような、自然地形のような、微妙な感じが続きます。

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しかし、空堀といっていいのではという明確な部分もあり、迷います。

とりあえず、ここが端っこの堀切になるようです。

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主郭とその周辺の遺構は見事で、大きな単郭の発展した山城といっていいのでしょう。周辺への広がりは、城の拡張を意図していたのでしょうか。

そのあたりはゆっくり考えてみたいところです。

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1177上山城(新潟県) [城印象記]

新潟県南魚沼市浦佐の上山城を紹介します。

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浦佐城から刑部沢川を隔てた北の尾根になります。県道沿いに「浦佐西山自然探勝路秋葉様(上山城址」の案内図があります。

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林道は車で進めます。ただ駐車場に適当な場所がなくてウロウロしましたが、それでも余白地はあるのでなんとかなると思います。

徒歩約10分とある登山口です。

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道が整備されているので歩きやすいです。

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ほどなく削平地がある場所に着きました。ここが城址というわけですね。

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ちょっと拍子抜けの感は拭い去れませんが、ほぼ単郭の砦といった感じの山城でしょう。この削平具合いは後世的に整地したものでしょうが、見晴らしはよく、城としての役割は充分果たせそうです。

まあ、おまけに1城見学出来てよかった、というところでしょうか。

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南の浦佐城を見たところです。浦佐城よりはやや低い位置です。浦佐城を補完したことだろうと思われます。

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奥には秋葉様が祀られています。浦佐城は薬師様、上山城は秋葉様なのですね。

この盛り上がりの土塊は櫓台であったと思われます。

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周囲も見ましたが、これらしい遺構はありませんでした。

背後は尾根が続いています。堀切があってもよさそうなところです。そんな訳で性懲りもなくかなり先まで歩いてみました。けど、それらしい遺構はありませんでした。

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1176浦佐城(新潟県) [城印象記]

新潟県南魚沼市浦佐の浦佐城を紹介します。

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駅から近いところではありますが、城下になる県道71号線は車も少なく余白地に駐車できそうなところです。登城口があり、案内板があります。訪れた時は赤いのぼりがあり、すぐわかる状態でした。

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対北条氏を意識した上杉氏の守りの城であることが記されています。

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南魚沼市指定文化財

   浦佐城跡(浦沢城址)

                   昭和56年3月30日指定

 浦佐城跡は薬師山(標高約300メートル)に築かれた中世の山城跡で、山麓を通る三国街道を迎え、魚野川の舟運を監視する要地に所在する。天正6年(1578年)3月に上杉謙信が急死すると、二人の養子、上杉景勝(坂戸城主長尾政景の子で、謙信の甥)と上杉景虎(小田原北条氏康の子)が後継者の座を争い、越後国を二分する戦乱が勃発した(御館の乱)。同年9月、北条軍が景虎に加勢するため関東から侵攻し、浦佐城を含む南魚沼の諸城を攻略した。翌年、雪消え近い2月、景勝は北条軍の再攻撃に備え、清水藤左衛門に浦佐城の守備を固めるように命じている。
 薬師山の尾根は東に細長く延び、両側は深い谷となって急崖をなしている。山上は大きく三段に削平され、4つの郭が築かれている。下段に位置する第4郭は丘陵先端部直下の南側山腹ににあり、8メートル下には幅1メートルほどの溝が帯状に巡っている。中段の第3郭は第4郭の直上、尾根の先端部にあり、北側は細長く小高い小丘状を呈する。上段の第1郭と第2郭は、第3郭の背後に13メートルの比高差をもって連続する。第1郭は長さ90メートル、幅18メートルの最大の郭で、第2郭との間は幅10メートル、深さ6メートルの堀切によって断ち切られている。第1郭から20メートル下の南側山腹には、この堀切と第4郭を結ぶ幅6メートルの帯郭が設けられている。第2郭の背後(西側)は幅20メートル、深さ10メートルの大きな二重の堀切によって尾根が断ち切られており、背後の防御を非常に堅固なものにしている。山上の城郭は全長260メートルに及ぶ。

   所要時間 約20分(片道)
   比高差  約160m(登り口~山上)

              平成21年3月 南魚沼市教育委員会

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縄張がわかる立体図がありました。

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道は整備されていて登りやすいのですが、さすがにこの季節ですので、草がのびていました。

こちらは図でいうところの第4郭です。

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帯郭を伝うような恰好で第1郭と第2郭の間の堀切へ登ります。

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そして第2郭から振り返ったところです。よく掘り切られた様子がわかるかと思います。

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第2郭です。草生していますが、通路が示されています。

第1郭と示された場所よりも高所で、私的には主郭と言っていいようにも感じました。

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そして、その奥にある二重堀切です。堀は深く、案内によると「幅20メートル、深さ10メートル」と言うのですから立派なものです。これほど草があるというのに、くっきり写っています。

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間を細い土橋が通っています。細いうえに、高低差もあるので、草枯れて全部がスッキリ見えると、歩くのが怖いくらいかもしれません。

そしてまた、反対から振り返ったところの景色が圧巻でした。

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浦佐城は眺望のよい城でした。田んぼの中を走る上越新幹線。その向こうには、六万騎城が見えます。尾根の先端です。

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また隣の尾根筋にも削平地が見えていて、上山城というお城があります。

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戻るようにして第1郭に着きました。ここが第1郭というのも、よく削平されていて、周囲も作りこんだ形跡がうかがえるからでしょうか。ともかく、城の中心に位置することだけは確かです。

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自然地形も生かした堀なども細かく見られました。

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下って第3郭です。この先端には薬師様を祀った祠があります。

草生していましたが、奥の二重堀切をはじめ遺構も充分楽しめる山城でした。

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