So-net無料ブログ作成
検索選択

1169鷹留城(群馬県) [城印象記]

群馬県高崎市下室田町字城山の鷹留城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

北側から城に近づきます。地図を参考にして下さい。登城口に案内があります。「鷹留城跡0.3km」

1169-01.jpg

「不法投棄禁止!」とあるあたりは、以前は草がなくて車も停めれたようですが、今は無理です。適当な余白地に停めてください。

城は整備がゆき届かず少し荒れた感じを受けましたが、遺構がよく残り、中世山城ファンならば楽しめる城だと思います。

まずいきなり出くわしたのが、こちらです。きれいに土橋が残り、虎口も読み取れます。搦め手になるそうです。

1169-02.jpg

山城そのものは比高がさほどなく登城しやすいですが、曲輪が3つほど一直線に並び、いずれも切岸の見事で、ここを登るのは大変です。

本丸を下から見たところです。

1169-03.jpg

そして、上に登った削平地です。楕円状に広がっています。切岸は見事ですが、後は造作はないようです。

1169-04.jpg

そして中心には「鷹留城死没者慰霊碑」が祀られていました。

その隣に棒杭碑と説明板があります。

1169-05.jpg

榛名町指定史跡

   鷹留城跡

 鷹留城は、中世永禄期(1558-69)の中規模山城の典型でであり、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、堀切等の各種遺構が原形に近く残っている点では県内希な城跡である。
 明応年間(1492-1500)長野業尚築城。永禄9年(1566)9月武田信玄勢のために落城(城主業通)。長野氏4代70余年の居城である。
 並郭式であり、南北430メートル、東西300メートル、本丸高さ東谷より70メートル。
 東南の菩提寺長年寺に長野氏累代の墓がある。

                      榛名町教育委員会
------------------------------------------------------------

本丸から二の丸を見ます。堀を掘ったというよりは、山を削って曲輪を作った感じがします。よく切岸が効いていて、落差感のある縄張りです。

1169-06.jpg

もちろんそればかりではなく周囲の帯曲輪には土塁がついているところもあります。

1169-07.jpg

そんな帯曲輪でしっかりと守られている様子もわかり、遺構はいい状態です。手頃な広さで、手軽に登れて、ラッキーでした。お奨めします。

1169-08.jpg
nice!(62)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1166長井坂城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡昭和村永井の長井坂城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示


県道255号線、永井口から案内が出ています。あと4km、細いゆるやかな坂道が続きます。

1166-01.jpg

城の近くまで車で行けます。整備されてないですが、駐車場があります。2,3台分のスペースが確保されています。

1166-02.jpg

もう城域ともいえるような位置で、少しいくと碑と案内板がありました。

1166-03.jpg

1166-04.jpg

 県指定史跡 長井坂城跡

       指定年月日 昭和55年9月16日
       所 在 地 渋川市赤城町棚下/利根郡昭和村永井

 旧沼田街道の長井坂にあり、北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に臨む断崖城で、南北260m、東西180mほどの囲郭式の山城である。西端の断崖上に三方を高さ2.5mの土塁によって囲まれた本郭がある。
 「加沢記」によれば、永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際に長井坂に陣を張り、降伏した沼田顕泰(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭遺構からみて永禄期以降の築城と考えられています。
 天正の初めに北条氏の持城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めました。天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条・真田両氏激突の攻防が繰り返されましたが、天正18年の小田原城の落城とともに、廃城となりました。

                      群馬県教育委員会
                      渋川市教育委員会
                      昭和村教育委員会

------------------------------------------------------------

この城の大きな特徴としては、沼田街道を取り込んでいることでしょう。

1166-05.jpg

二の丸と本丸の間が古道後になります。

この画像の右手が本丸、左が古道になります。

1166-06.jpg

その向かいのニの丸は畑になっています。

1166-07.jpg

本丸は広く、周囲に土塁があるのがわかります。

1166-08.jpg

本丸を探索し、南へ進みます。間に空堀があり、その向こうは三の丸です。

1166-09.jpg

曲輪も広ければ、空堀も広いです。ただ、埋もれて本来の深さにはなってないのでしょう。

1166-10.jpg

そのまま南に進むと、追手跡がありました。

1166-11.jpg

全体の縄張りが判りづらい城です。地形の要害性を生かしてない様に感じられました。そんな要害性よりも自分たちの土木工事で作り上げた城なのでしょう。

広い曲輪、広い空堀と、要地に近代的な城を築きました。いかにも北条氏の城です。

中山城とよく似ているな、そう考えると、何かよくわかったような気がしました。

1166-12.jpg
nice!(53)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1165中山城(群馬県) [城印象記]

群馬県吾妻郡高山村中山字城内の中山城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

国道145号線沿いに駐車場があります。そこには、碑と案内板があります。

1165-01.jpg

まだ新しいものです。

1165-02.jpg

   中山城跡

 群馬県史は、当中山城と昭和村の長井坂城の築城方式は、同じ半折囲郭構造で、驚くほど似ていると指摘しています。そして、その築城者は共に小田原北条氏によるとみています。
 その縄張り(構造)は、本丸(主郭)を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸(副郭)を設置し、堀切と土居で防御をし、二の丸を囲むような形に三の丸が造られ、これに付随して更に多くの曲輪が配置された、要害堅固な城郭といえます。
 なお、このような縄張りとなった築城年代は、北条氏が上野国の主要部分を制しながらも、眞田氏との勢力が触れ合う「境目の城」という性格から、天正10年(1581)と推定され、天正18年の北条氏の滅亡頃に廃城となりました。

   平成28年10月  高山村教育委員会(撰文平形作太郎)

------------------------------------------------------------

お城へは案内も出ているのでわかりやすいと思います。中世山城ですが、整備もされていて、見学しやすいお城です。

1165-03.jpg

1165-04.jpg

もっとも、こんなふうに一直線に本丸へ向かう道があったわけじゃないですが。

四角く土塁で囲われた削平地があります。祠も置かれています。

主郭です。

1165-05.jpg

ここにも案内板があり、説明が若干違うので掲載しておきます。

1165-06.jpg

   中山城跡

 中山城は立地上は土囲式丘城、構造上は本郭が一側に偏し半円形をした半折囲郭式で、この地域では最も新しい構造で、長井坂城と共に小田原北条氏が築城したものです。
 ここ本丸は、一辺約60mの正方形に近く追手は南、搦手は北にありました。二の丸は本丸の北・西・南を囲み、三部分に分かれ、本丸との間は空堀で深く、堀底は通路を兼ねていました。その外側西・南に三の丸が付き、更に腰曲輪等が付属しています。
 なお、このような舌状台地での縄張りでは、最も安全な先端部を主郭とするのが普通ですが、この城は、北条・眞田の覇権争いの中、領国の境界にある「境目の城」からか、本丸が舌の付け根に偏った構造となっています。
 この縄張りでの築城は天正10年(1581)、廃城は天正18年(1590)は下らないといわれています。

   平成28年10月  高山村教育委員会(撰文平形作太郎)

------------------------------------------------------------

案内板には縄張図も載っています。

1165-07.jpg

舌状台地突端の城としては、変わった縄張です。写真映えはしませんが、他の山城とちょっと違うものを感じると、縄張図を持って歩くのも楽しいですよね。

三の丸から本丸を眺めたところです。

1165-08.jpg

こちらは二の丸です。画像左が本丸です。

1165-09.jpg

こうして見ると、守りの重視の城であり、近世の平城の縄張りに近いものを感じます。もっとも、この城が使われたのが戦国後期のことではあります。

本丸周囲の空堀を見ると、鉄砲の時代のものを感じます。

1165-010.jpg

1165-11.jpg

緑が濃くなっていましたが、整備されており、充分楽しめた丘城でした。

1165-12.jpg
nice!(56)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1161小川城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡みなかみ町月夜野字古城の小川城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

国道291号線が城址を分断していますが、西側の本曲輪を中心とした一帯はよく遺構が残っていて、ワクワクする中世城です。名胡桃城に似たような構造のお城です。

大きな看板が誘ってくれます。

1161-01.jpg

さっそく見えるのは大きな空堀です。

1161-02.jpg

1161-03.jpg

進むと櫓台が見えます。ここには「本丸跡」の案内が立っていました。

1161-04.jpg

そして、やや下り気味の曲輪を行きます。

1161-05.jpg

周囲には石塁のようなものも見られます。

1161-06.jpg

立派な碑がありました。

1161-07.jpg

この先にも曲輪があります。

河岸段丘にある城がよくわかります。少し緑が多くてなっていましたが、この下り気味の地形は面白いですね。

1161-08.jpg

反転して、国道291号線の東側も歩きます。

保存会の方たちによる案内板があって、往時を想像することができます。こちらは「二の丸濠址」です。

1161-09.jpg

こちらは三ノ丸にあたりますが、江戸時代には、ここに陣屋が構えられていたそうです。その遺構はありませんが「真田伊賀守陣屋(御寝所)址」の案内がありました。

1161-10.jpg

歩くと八幡沢と古城沢の間に城があったことがわかります。こうした川と河岸段丘の地の利を生かしたお城でした。

1161-11.jpg
nice!(61)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1160猿ヶ京城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京の猿ヶ京城(宮野城)を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

国道17号線に猿ヶ京関所資料館があります。ここを南に曲がり進んだところが猿ヶ京城です。奥まで進むと湖城閣というホテルがあります。ここが主郭です。

その入り口に案内板が立っていました。

1160-01.jpg

   猿ヶ京城址の由来

 猿ヶ京城址は三方を崩れやすい岩の崖で囲まれ、現在は赤谷湖に突き出した半島の先端に位置し、北側を二重の空堀で防御されていた。この地方に多い崖端城と言う形状である。
 全体の規模は東西約180メートル、南北も180メートルの逆三角形で、底辺部が二の丸北側の外堀に当り、西寄りに追手虎口が開いていた。
 二の丸の規模は南北約60メートル、崖端城であるから北方は平坦地が続いていた。また二の丸、本丸の土居は約2.5メートル以上の高土居で上面が武者走りになっていた。二の丸土居は追手虎口の東で南に折れ、本丸堀切りに接する部に虎口を構成していた。現在二の丸の外堀、高土居ともにほとんど失われている。
 本丸堀切りの長さは約120メートル、東部に顕著な「折」が設けられ、そこに本丸虎口があった。本丸の土居、外堀の保存状況は良好である。
 猿ヶ京城の築城年代は分っていない。古文書には加沢記で上杉謙信が猿ヶ京の名を付けたと言われる永禄3年より10年ほど下った永禄13年の上杉輝虎(謙信)から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出である。天正6年にいったん北条方の手に渡ると天正8年に真田方の海野輝幸により北条方の知高左馬之助義隆が降伏し真田昌幸が領主となった。真田昌幸から同年5月4日に中澤半衛門に宛てた感状に「猿ヶ京三の曲輪焼払之條、忠節無比類候」とある。このように猿ヶ京城は上杉氏、北条氏、真田氏と領主が変遷した。江戸幕府は寛政年間に猿ヶ京に三国街道の関所が設置し、関東日本海側の境界を守る猿ヶ京はその役割を終えた。

           平成27年 みなかみ町観光協会新治地区会

------------------------------------------------------------

縄張図が載っているのが、ありがたいですね。

まず主郭の様子です。ホテル湖城閣です。

1160-02.jpg

周辺には土塁の痕跡らしい高まりがありました。

1160-03.jpg

この城の見所はその主郭の前の内堀でしょうか。

西側にのびる空堀です。「上杉謙信宮野城址内堀」と案内がでています。

1160-04.jpg

ホテルへの道は土橋状にはなっていますが、後世的なものでしょう。

こちらは東にのびる空堀。こちらの方が見応えありますかね。先には赤谷湖の水が見えます。

1160-05.jpg

この内堀より外にも空堀のラインが認められます。西の方へ踏み込んでみると割と遺構っぽい地形が残っています。

1160-06.jpg

また反対に東側の建物の裏をのぞいてみると、こちらにも空堀の痕跡が感じられました。

1160-07.jpg

このような外堀の案内もありましたが、こうしてみるともう少し外寄りに外堀はあったようです。

1160-08.jpg

が、それにしても二重の空堀に守られた城であったのでしょう。

今はちょっとした隙間から赤谷湖が見えます。

1160-09.jpg

突端に位置するのがわかります。

赤谷湖は相俣ダムのダム湖で、往時は水などなく崖に面していたのでしょう。その感じは、歩いているとよくわかります。いい写真が撮れなくて残念ですが。

この地方に多いという崖端城であることがわかる猿ヶ京城でした。

(こちらは国道17号線沿いの猿ヶ京関所資料館です。)

1160-10.jpg
nice!(68)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1144梶谷城(長崎県) [城印象記]

長崎県松浦市今福町東免字城山の梶谷(かじや)城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

国道204号線を曲がって城に近づきますが、幅の広い道が通っているので安心して訪ねやすい山城のひとつでしょう。要所に案内もあります。

1144-01.jpg

道の先に大きな駐車場もあります。トイレ・休憩所・案内板などもあり、梶谷城の評価の高さを感じます。

1144-02.jpg

ここから歩いて登ります。5分ほどで副郭に到着します。

目を瞠るような石垣が出迎えてくれます。

1144-03.jpg

その前に碑や案内板がありました。

1144-04.jpg

1144-05.jpg

1144-06.jpg

  松浦党梶谷城跡(まつらとうかじやじょうあと)

 梶谷城は、松浦党の初祖源久公が築城したと伝えられており、築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。
 いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。
 城は山頂部を楕円形に削平して主郭とし、南側に一段高くなった天守台跡がある。主郭の北側には、西側の大手門からのびた長さ18m、高さ5mの城壁がめぐらされている。大手門は石垣を枡型に配し、門の南側に櫓跡がみられる。主郭の北側には、一段低くなった副郭が配置されている。城の西側50m下位には山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、石壁・石塁・門などが残っている。
 梶谷城は、松浦党発展の跡を探るうえにきわめて重要な城跡であります。

                  昭和46年 長崎県指定史跡
------------------------------------------------------------

遊歩道に沿って進みます。

こちらは主郭前の曲輪です。

1144-07.jpg

縁は登り石垣のような石塁が見られました。

1144-08.jpg

そして、その向こうの斜面には竪堀があります。主郭との境に近いところでしたから、横移動をして主郭下に行かせないためのものでしょう。

草でわかりにくいですね。眼で確認した時は、1mほど掘れた、巾のある窪みを感じましたが、いかがでしょう。

1144-09.jpg

こういう遺構を見つけると、城そのものの理解も深まるようで楽しいです。

周囲は草生して、薮っています。縄張図があるから見つかるわけで、縄張図を描く人は、すごいものですね。

主郭に到着しました。

1144-10.jpg

朝のよく晴れた時に訪問できました。遺構もさることながら、ここは眺望も素晴らしい城です。

東隅櫓台からの景色です。

1144-11.jpg

主郭の奥にはもう一段高くなった天守台がありました。

1144-12.jpg

ここから眺望です。いいですねえ。

私は松浦一族の歴史は、まだほとんどわかっていませんが、そんなことを考えながら、しばらくぼんやりしていたい景色です。

1144-13.jpg

整備されてはいるのですが、その後は放置されて草が伸びて少し薮化している状態でした。石垣などの遺構もよく残り、見応えのある城です。こちらは、大手門周囲の桝型です。もう夏も近くなります。どんどん草に埋もれてしまいそうです。そういうものと思いながらも、残念ですね。

1144-14.jpg
nice!(65)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1143針尾城(長崎県) [城印象記]

長崎佐世保市針尾中町の針尾城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

小鯛公民館前から眺めた針尾城です。入江近くの丘に中世山城があります。

1143-01.jpg

海に比重を置きながら割拠した小領主のこの地方の典型的な城だそうです。

周囲の道は狭く注意が必要ですが、城の背後から近寄れます。分岐するあたりの余白地に停めて攻城開始です。

お墓の横を抜け、まっすぐ進みます。

1143-02.jpg

藪の先は城です。横堀が迎えてくれました。薮の中ですが、しっかり空堀であることがわかります。

1143-03.jpg

そしてその土塁の向うも空堀です。二重空堀です。

1143-04.jpg

空堀は良好に残っているのですが、薮っていて見通しはよくなく写真映えもしないのは残念です。

その先には丸くなった削平地が認められます。

1143-05.jpg

こちらは主郭でしょう。どうやら単郭のようです。

前面は土塁もなく切り立っているようでした。かなりの落差があるようです。

1143-06.jpg

また周囲を観察すると石なども見られます。基本は土の城ながら、土留めとして補強に使われたのでしょう。

1143-07.jpg

城としてはコンパクトです。その分全体を把握しやすく、また薮っているものの遺構は見応えのあるものがあります。

主郭を囲む土塁のラインなどきれいで、うっとりしますね。

いいお城でした。

1143-08.jpg
nice!(61)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1142伊万里城(佐賀県) [城印象記]

佐賀伊万里市松島町の伊万里城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

伊万里川横の城山公園が伊万里城です。かつての面影はないというものの、市街地近くに盛り上がった丘は、城そのものと感じられます。

1142-01.jpg

伊万里氏の守護寺という円通寺があります。車止めがありますが、こちらから遊歩道であがれます。石垣がいい雰囲気でしたが、まあ城の遺構というわけではないでしょう。

1142-02.jpg

坂の途中に案内板がありました。

1142-03.jpg

  伊万里城跡

 伊万里城は、中世(鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代)に、伊万里浦を納めた松浦党の伊万里氏の居城とされています。松浦党は中世に西北九州を根拠地にして活躍した水軍です。およそ800年前の鎌倉時代の初期に、松浦党の一族で伊万里氏の祖、峯上が築城したと伝えられています。
 現在は、高さ約42m、南北約270m、東西約130mの丘ですが、当時は伊万里湾に突き出した岬状の地形で、湾内を展望し、伊万里川や白野川、脇田川の河口部を支配する絶好の場所だったと思われます。
 正中2年(1325)ごろの伊万里は、伊万里浦、福島、波多津浦、田平町蒲田浦と青崎、佐世保市矢岳、神埼庄の一部(元寇恩賞地)を領地とし、五島の海夫集団を掌握しており、松浦党の有力家でした。
 しかし天正4年(1576)、伊万里兵部大輔治のとき、佐賀の戦国大名、竜造寺隆信に攻められて、伊万里は落城しました。北東側の陣内の丘に「鶴亀城由縁之霊」と刻まれた石碑があり、戦死者の供養碑と考えられています。
 明治時代以後、伊万里城跡は「城山」と呼ばれて公園ににりましたが、第二次世界大戦中は敵の飛行機をみはる対空監視哨が置かれたこともあります。現在は、伊万里富士(腰岳)や市街地を見晴す景勝の地桜の名所として市民にしたしまれています。
                          伊万里市

------------------------------------------------------------

木々が生い茂り展望は効きません。木々の合間から伊万里川です。

あのあたりは伊万里津として、港としてにぎわったのでしょう。その要地を押さえる城でした。

1142-04.jpg

公園として利用されていることもあって、上は削平地が広がっていました。

1142-05.jpg

1142-06.jpg

遺構は見られませんが、お城らしい地形ですかね。

片隅に供養塔らしきものがありました。

1142-07.jpg

面白いなと思ったのは、ここに以前は展望台があったようです。ポケモンGOのポケストラップで知りました。ポケモンGOで知ることも面白かったし、展望台など取り止めて、何もない状態にしてあるのも、今の時代らしい整備なのかな、と思いました。

もう暑くなってきましたね。何もない城をぶらぶら歩くのもモノ好きですか。

1142-08.jpg
nice!(59)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1113御前原城(栃木県) [城印象記]

栃木県矢板市早川町御前原の御前原城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

シャープの工場が並ぶ中心に公園があります。それが、こちら御前原城です。

1113-01.jpg

ちょうど桜が満開でした。

方形の土塁と空堀がよく残ります。

晴れ渡った空と朝の光、最高の気分を味わいました。

1113-02.jpg

1113-03.jpg

1113-04.jpg

内側の土塁と空堀、それから外も土塁があるようで、二重の土塁のようです。

堀底から土塁までは5m弱の高さがあります。

1113-05.jpg

東側に見えます。よくぞこの御前原城を残してくれたと思います。日曜の朝なので工場に囲まれた御前原城は静かです。平日などは、周囲の癒しの空間になっていることでしょう。

1113-06.jpg

東側には何もなかったのですが、南側には虎口があったようです。

1113-07.jpg

そして、その外側には曲輪のような空間があります。枡形のような防衛的なものがあったのでしょうか。遺構から正確には読み取り辛いですが、それらしいものを感じます。

御前原城の大手口は南側だったと思われます。

反対の北側の虎口です。内側から見たところです。

1113-08.jpg

最初の画像の内側からになります。

今ではすっかり正面の入り口になっていますが、後世、土橋状に埋め立てて作られたようです。公園とした残された時にこのように整備されたのでしょう。車1台が通れる幅があり、入ったところが駐車場になっています。

往時は搦め手になり、虎口があり、何らかの形になっていたと思われますが、よくわかりません。

1113-09.jpg

入った正面、中心地(やや北より)に祠があります。麻疹地蔵堂です。

このあたりに居館がありました。往時は庭園もあったようです。

区切りの土塁です。

1113-10.jpg

郭内は広く(東西177m南北188m)、このように機能に応じて区切って利用していたのでしょう。

それにしても桜がいいですね。

1113-11.jpg

南東隅です。四周を囲む土塁の隅は、特別広くなっておらず、隅櫓のようなものは建てられてないようでした。

1113-12.jpg

東側には虎口と土橋が残っています。これこそ、本来の形でしょう。

1113-13.jpg

南、東、北に虎口があったわけで、四周を囲む二重の土塁と空堀、特に折れはなく、また櫓台となるような土壇もなく、素朴な形でのお城でしたが、かなりの広さがあり、往時、さらに周囲にも城郭遺構があったと思うと、なかなかなものと感じいってきました。

そして何よりも桜がよかった。青空と朝日と桜が最高でした!

1113-14.jpg

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

人気ブログランキング
nice!(52)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

1110曽我城(神奈川県) [城印象記]

神奈川県小田原市曽我谷津の曽我城を紹介します。

より大きな地図蔓草マップ を表示

曽我氏の居館跡ということで、まあ有名そうなので行けばわかるだろうとタカをくくって訪れました。が凡そこのあたりだろうと思いながらも、案内は見つからず、彷徨ってしまいました。

路地は細く、車が停められません。簡単に済まそうとしたのまずかったのでしょう。やっぱり車を停めて歩いた方がよかろうと、下曽我駐在所奥の駐車場に入れます。入れて気付いたのですが、ここが城前寺の駐車場でした。

城前寺を訪れます。

説明板には「曽我城の大手前にあるのでこの名がある」とあります。

1110-01.jpg

そして本堂の奥には曽我氏の墓があります。

曽我太郎祐信、満江御前、曽我十郎・五郎兄弟の墓と伝わる五輪塔です。実はこの下の墳丘が曽我城の土塁の一部だということです。

1110-02.jpg

そして、館碑はここより東100mの地点です。見つからず、あたりをぐるぐる歩いてしまいましたが、地元の方に聞いてやっとたどり着きました。

1110-03.jpg

何とか暗くなる前にたどり着きました。カメラに収めてほっと一息です。

でも、おかげてあたりの地形がよくわかりました。穏やかな丘陵地で、城の遺構と思われるものは何もありませんが、居館を構えるのにいい場所でしょう。

しかし、やっぱりきちんと調べないといかんなと反省した次第です。

ふと、気が緩んで、ちょっとポケモンGOでもとアプリを立ち上げたら、曽我城がポケストップになってました。あー、こんな探し方も出来たんだ! 気が付かなかった、と一本取られた気分でした。

やっぱり、曽我城は有名スポットなんですよね。

1110-04.jpg

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

人気ブログランキング
nice!(62)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行