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1175大崎城(新潟県) [城印象記]

新潟県南魚沼市大崎の大崎城を紹介します。

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関越道と県道28号線が交わる東に坊谷山があります。ここの南西尾根先の突端という位置に大崎氏の居城大崎城があります。

県道28号線から入ったところに登山者のための駐車場があります。

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坊谷山は「ぼたんやま」と読むのですね。「大崎城跡(坊谷山城)」の記載と、山の案内もあり、ハイキングのできる山として整備されている様でした。

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さあ、登山道入口です。「見て二割登って五割医療費削減坊谷山」という看板もあります。山歩きを奨励しています。

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尾根沿いの道をほぼ一直線に登って行きます。整備されているので歩きやすいですし、雨に濡れて緑が鮮やかでした。

手前の木には「イタヤカエデやく400さい」とありました。

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いよいよ城域中心部です。堀切に尾根道が土橋状になっています。

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振返って堀切を確認したところです。遺構が読み取れます。

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主郭です。削平地が広がります。

比高120m、約15分ほどで登れました。

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主郭背後の堀切は高低差もありポイントでしょうかね。

他にも、土塁・石積みなど確認でき、中世山城を楽しめます。

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1172坂戸城(新潟県) [城印象記]

新潟県南魚沼市六日町坂戸の坂戸城を紹介します。

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標高634mの坂戸山山頂に広がる中世山城です。比高470mにもなる屈指の山城で、ここを踏破したいと思っていましたが、やっと実現しました。

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こちらは、登城口になる鳥坂神社前の駐車場です。あいにくの雨天で、カッパを着ての登城となりましたが、広い駐車場には何台も車が停まっていました。坂戸城は登山ハイキングとしても人気があるところです。

そこには案内図付の説明もありました。

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国指定史跡 坂戸城跡

坂戸城跡は坂戸山(標高634m、山麓との比高差約450m)とその西麓に築かれた中世から近世初頭にかけての城跡である。南北朝時代(14世紀中頃)、新田氏に替わって上杉氏が越後守護になると、家臣の長尾氏(上田長尾氏)が勢力を伸ばし、やがて南魚沼地方(上田庄)を治めるようになった。16世紀初頭、越後国内が戦国の動乱期に入り、坂戸城は長尾房長による本格的な築城が始まった。天文19年(1550年)、長尾景虎(後の上杉謙信)が越後国主となるに及び、翌年、政景(房長の子)は景虎と和睦を結び、臣従するに至った。天正6年(1578年)謙信が急逝し、政景の子景勝が御館の乱(1578-80年)を経て越後国主になると、坂戸城は近隣武将の城番とされ、領国経営の要所となった。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により景勝は会津に国替えとなり、春日山城には越前から堀秀治が入った。坂戸城には秀治の家臣堀直竒が入ったが、同15年(1610年)信濃国飯山に移され、坂戸城は廃城にとなった。
 坂戸山山頂部と主要な尾根には、石垣をもつ実城をはじめ、主水郭・大城・小城などの郭群が築かれている。実城をやや下ると桃之木平という広い郭があり、兵糧などの貯蔵や大勢の城兵が立て籠もる際に使われたと考えられる。寺が鼻尾根には小さな円形の塚が数多く存在する(寺が鼻百塚)。西麓には、城主館跡(通称御館)・家臣屋敷跡・御居間屋敷跡がある。城主館跡は1町(約110m)四方あり、周囲を土塁で囲み、正面の土塁には高さ約2mの石垣が築かれている。家臣屋敷跡は城主館跡の前方一帯に広がり、直竒が家臣たちをここに集住させた。御居間屋敷跡は城主館跡のすぐ南側、薬師尾根の中腹にあり、直竒が築いたものである。城主館跡の前方一帯に広がり、直竒によるものである。西麓部と山頂部・尾根上の郭群を結ぶ道としては、桃之木平を通る城坂と呼ばれる沢伝いの道が使われた。
 昭和54年(1979年)、典型的な中世山城の姿をとどめているとして、国の史跡に指定された。

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この駐車場の手前には内堀もあります。

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車止めがあって車では進めませんが、道があります。まず左手に家臣屋敷の跡が見えてきます。

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石垣と碑が見えます。館跡になるのでしょうか。

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広い敷地になります。これで充分、坂戸城を見た気分にはなると思います。が、山頂にある実城にたどり着いてこその坂戸城です。

雨が降っています。

この日、長野県も群馬県も晴れていました。日本海側ということで、単に県境を越えたという以上に境を越えた気がしました。

こんな日にと思わない訳ではありませんが仕方ありません。これをためらっていては、チャンスをものにできません。それにしても、山は高くそびえるのでした。

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距離的には半分近く進んだところに大きな一本杉があります。ここに案内板があります。

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しかし、山はこれからです。沢沿いの山道をくねくねしながら登ります。道は小道ながら整備されています。途中、沢を横断したり、また山陰に雪が残っていたところもありました。

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案内も出ているので迷うことはありません。途中の岐路で主水郭に上がりました。

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ここまでで約1時間かかりました。道は整備されていたので登るのは大変ではありませんが、それでも1時間も歩いたのかと驚きです。

さっそく山城探索の開始です。

これほど高所にある山城なのに、自然地形を利用しただけの遺構ではではなく、しっかり作りこまれた遺構に驚きます。変な言い方ですが、普通に中世山城の縄張が展開され、遺構が残っています。

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富士権現のある実城へ来ました。ここが中心部になります。

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「坂戸山頂上634m」の案内もあります。ついに来ました。

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あいにくの天気ではありましたが、雨は小止みになっていて写真も撮れました。こんな坂戸城もいいですね。緑が濃くなっています。

眺望も抜群でした。むしろこれほど高所なのに、街道あたりがしっかり手に取るように見えるのが意外くらいでした。

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こちらは南南東の尾根に続く大城小城です。ガスが発生してますが、いい感じですね。

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さっそく、大城小城にも侵攻します。途中、小さな二重堀切も見られますし、よく作りこまれています。振り返ったところの実城もいいですね。

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細尾根を進みます。

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小城を越え、大城まで来ました。

土塁で区画が区切られています。その奥の櫓台のような土塊から撮っています。

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またここから見る実城も印象的なものでした。

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高所でありながら、ごく普通に山城遺構が残っていることに感動しました。城域も広く、天候のこと、緑が深くなったこともあって、遺構探索としてはまだまだ見たりない気もしましたが、要所はしっかり楽しめました。

下山です。

コースを替え、途中桃之木平に寄りました。広い曲輪があります。

周囲に段曲輪や畝状の竪堀もあるようですが、それらは充分確認ができませんでした。

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登ってきた登山道に戻ります。まだ下山にはひと息かかりますが、見学は終了です。

日本でも指折りの比高を誇る坂戸城も、よくある中世山城と同じ遺構です。当たり前のことでしょうが、ちょっと意外な感じと、やっと来ることができた安堵感を感じました。

しかし、途中の景色とはいえ、この見下ろす景色はやっぱり坂戸城ならではだなぁ、と感じ入ったのでありました。

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1170荒戸城(新潟県) [城印象記]

新潟県南魚沼郡湯沢町の荒戸城(荒砥城)を紹介します。

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国道17号線のトンネルの上になります。トンネル前後の旧道に入って進むと登城口に着きます。登城口に数台分の駐車が出来ます。

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案内板がありました。縄張図もあります。

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  荒戸城跡

  新潟県指定文化財(史跡) 新潟県南魚沼郡湯沢町大字神立・大字三俣

 荒戸城は、上杉謙信亡きあと景勝景虎の跡目相続争い御館の乱の際、景虎を支援する、北条氏の関東の侵入に備えて天正6年(1578年)景勝が、登坂与衛門尉らに命じて築かせた城で、三国街道芝原峠を見下ろす尾根上に位置している。
 城跡は、土塁に囲まれた本丸を中心に空堀で囲まれた二の丸、三の丸があり郭の入り口は、それぞれが外桝形で固めるなど小規模ながら堅固な作りになっている。中世の山城としての原形をよくとどめており、貴重な史跡である。

  昭和51年3月31日指定 新潟県教育委員会 湯沢町教育委員会

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雨が降るか降らないかという微妙な天気でしたが、なんとか見学できました。

大手口方面から見上げたこの感じがいいですね。枡形や虎口が高低差を伴って見れます。

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こちらは主郭です。特別、大きなものではありません。

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主郭の周りには土塁があります。高くはないですが、分厚いものですね。

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三の丸から見上げた主郭です。

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堀もよく残っています。

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中規模の実戦的な前衛基地を感じました。表示もありますし、よく遺構が残っているので、縄張図を片手に見て回ると面白い城です。

また天候のよい時にゆっくりと立ち寄ってみたいです。

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1169鷹留城(群馬県) [城印象記]

群馬県高崎市下室田町字城山の鷹留城を紹介します。

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北側から城に近づきます。地図を参考にして下さい。登城口に案内があります。「鷹留城跡0.3km」

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「不法投棄禁止!」とあるあたりは、以前は草がなくて車も停めれたようですが、今は無理です。適当な余白地に停めてください。

城は整備がゆき届かず少し荒れた感じを受けましたが、遺構がよく残り、中世山城ファンならば楽しめる城だと思います。

まずいきなり出くわしたのが、こちらです。きれいに土橋が残り、虎口も読み取れます。搦め手になるそうです。

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山城そのものは比高がさほどなく登城しやすいですが、曲輪が3つほど一直線に並び、いずれも切岸の見事で、ここを登るのは大変です。

本丸を下から見たところです。

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そして、上に登った削平地です。楕円状に広がっています。切岸は見事ですが、後は造作はないようです。

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そして中心には「鷹留城死没者慰霊碑」が祀られていました。

その隣に棒杭碑と説明板があります。

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榛名町指定史跡

   鷹留城跡

 鷹留城は、中世永禄期(1558-69)の中規模山城の典型でであり、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、堀切等の各種遺構が原形に近く残っている点では県内希な城跡である。
 明応年間(1492-1500)長野業尚築城。永禄9年(1566)9月武田信玄勢のために落城(城主業通)。長野氏4代70余年の居城である。
 並郭式であり、南北430メートル、東西300メートル、本丸高さ東谷より70メートル。
 東南の菩提寺長年寺に長野氏累代の墓がある。

                      榛名町教育委員会
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本丸から二の丸を見ます。堀を掘ったというよりは、山を削って曲輪を作った感じがします。よく切岸が効いていて、落差感のある縄張りです。

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もちろんそればかりではなく周囲の帯曲輪には土塁がついているところもあります。

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そんな帯曲輪でしっかりと守られている様子もわかり、遺構はいい状態です。手頃な広さで、手軽に登れて、ラッキーでした。お奨めします。

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1166長井坂城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡昭和村永井の長井坂城を紹介します。

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県道255号線、永井口から案内が出ています。あと4km、細いゆるやかな坂道が続きます。

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城の近くまで車で行けます。整備されてないですが、駐車場があります。2,3台分のスペースが確保されています。

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もう城域ともいえるような位置で、少しいくと碑と案内板がありました。

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 県指定史跡 長井坂城跡

       指定年月日 昭和55年9月16日
       所 在 地 渋川市赤城町棚下/利根郡昭和村永井

 旧沼田街道の長井坂にあり、北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に臨む断崖城で、南北260m、東西180mほどの囲郭式の山城である。西端の断崖上に三方を高さ2.5mの土塁によって囲まれた本郭がある。
 「加沢記」によれば、永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際に長井坂に陣を張り、降伏した沼田顕泰(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭遺構からみて永禄期以降の築城と考えられています。
 天正の初めに北条氏の持城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めました。天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条・真田両氏激突の攻防が繰り返されましたが、天正18年の小田原城の落城とともに、廃城となりました。

                      群馬県教育委員会
                      渋川市教育委員会
                      昭和村教育委員会

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この城の大きな特徴としては、沼田街道を取り込んでいることでしょう。

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二の丸と本丸の間が古道後になります。

この画像の右手が本丸、左が古道になります。

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その向かいのニの丸は畑になっています。

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本丸は広く、周囲に土塁があるのがわかります。

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本丸を探索し、南へ進みます。間に空堀があり、その向こうは三の丸です。

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曲輪も広ければ、空堀も広いです。ただ、埋もれて本来の深さにはなってないのでしょう。

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そのまま南に進むと、追手跡がありました。

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全体の縄張りが判りづらい城です。地形の要害性を生かしてない様に感じられました。そんな要害性よりも自分たちの土木工事で作り上げた城なのでしょう。

広い曲輪、広い空堀と、要地に近代的な城を築きました。いかにも北条氏の城です。

中山城とよく似ているな、そう考えると、何かよくわかったような気がしました。

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1165中山城(群馬県) [城印象記]

群馬県吾妻郡高山村中山字城内の中山城を紹介します。

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国道145号線沿いに駐車場があります。そこには、碑と案内板があります。

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まだ新しいものです。

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   中山城跡

 群馬県史は、当中山城と昭和村の長井坂城の築城方式は、同じ半折囲郭構造で、驚くほど似ていると指摘しています。そして、その築城者は共に小田原北条氏によるとみています。
 その縄張り(構造)は、本丸(主郭)を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸(副郭)を設置し、堀切と土居で防御をし、二の丸を囲むような形に三の丸が造られ、これに付随して更に多くの曲輪が配置された、要害堅固な城郭といえます。
 なお、このような縄張りとなった築城年代は、北条氏が上野国の主要部分を制しながらも、眞田氏との勢力が触れ合う「境目の城」という性格から、天正10年(1581)と推定され、天正18年の北条氏の滅亡頃に廃城となりました。

   平成28年10月  高山村教育委員会(撰文平形作太郎)

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お城へは案内も出ているのでわかりやすいと思います。中世山城ですが、整備もされていて、見学しやすいお城です。

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もっとも、こんなふうに一直線に本丸へ向かう道があったわけじゃないですが。

四角く土塁で囲われた削平地があります。祠も置かれています。

主郭です。

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ここにも案内板があり、説明が若干違うので掲載しておきます。

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   中山城跡

 中山城は立地上は土囲式丘城、構造上は本郭が一側に偏し半円形をした半折囲郭式で、この地域では最も新しい構造で、長井坂城と共に小田原北条氏が築城したものです。
 ここ本丸は、一辺約60mの正方形に近く追手は南、搦手は北にありました。二の丸は本丸の北・西・南を囲み、三部分に分かれ、本丸との間は空堀で深く、堀底は通路を兼ねていました。その外側西・南に三の丸が付き、更に腰曲輪等が付属しています。
 なお、このような舌状台地での縄張りでは、最も安全な先端部を主郭とするのが普通ですが、この城は、北条・眞田の覇権争いの中、領国の境界にある「境目の城」からか、本丸が舌の付け根に偏った構造となっています。
 この縄張りでの築城は天正10年(1581)、廃城は天正18年(1590)は下らないといわれています。

   平成28年10月  高山村教育委員会(撰文平形作太郎)

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案内板には縄張図も載っています。

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舌状台地突端の城としては、変わった縄張です。写真映えはしませんが、他の山城とちょっと違うものを感じると、縄張図を持って歩くのも楽しいですよね。

三の丸から本丸を眺めたところです。

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こちらは二の丸です。画像左が本丸です。

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こうして見ると、守りの重視の城であり、近世の平城の縄張りに近いものを感じます。もっとも、この城が使われたのが戦国後期のことではあります。

本丸周囲の空堀を見ると、鉄砲の時代のものを感じます。

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緑が濃くなっていましたが、整備されており、充分楽しめた丘城でした。

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1161小川城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡みなかみ町月夜野字古城の小川城を紹介します。

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国道291号線が城址を分断していますが、西側の本曲輪を中心とした一帯はよく遺構が残っていて、ワクワクする中世城です。名胡桃城に似たような構造のお城です。

大きな看板が誘ってくれます。

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さっそく見えるのは大きな空堀です。

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進むと櫓台が見えます。ここには「本丸跡」の案内が立っていました。

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そして、やや下り気味の曲輪を行きます。

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周囲には石塁のようなものも見られます。

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立派な碑がありました。

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この先にも曲輪があります。

河岸段丘にある城がよくわかります。少し緑が多くてなっていましたが、この下り気味の地形は面白いですね。

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反転して、国道291号線の東側も歩きます。

保存会の方たちによる案内板があって、往時を想像することができます。こちらは「二の丸濠址」です。

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こちらは三ノ丸にあたりますが、江戸時代には、ここに陣屋が構えられていたそうです。その遺構はありませんが「真田伊賀守陣屋(御寝所)址」の案内がありました。

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歩くと八幡沢と古城沢の間に城があったことがわかります。こうした川と河岸段丘の地の利を生かしたお城でした。

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1160猿ヶ京城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京の猿ヶ京城(宮野城)を紹介します。

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国道17号線に猿ヶ京関所資料館があります。ここを南に曲がり進んだところが猿ヶ京城です。奥まで進むと湖城閣というホテルがあります。ここが主郭です。

その入り口に案内板が立っていました。

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   猿ヶ京城址の由来

 猿ヶ京城址は三方を崩れやすい岩の崖で囲まれ、現在は赤谷湖に突き出した半島の先端に位置し、北側を二重の空堀で防御されていた。この地方に多い崖端城と言う形状である。
 全体の規模は東西約180メートル、南北も180メートルの逆三角形で、底辺部が二の丸北側の外堀に当り、西寄りに追手虎口が開いていた。
 二の丸の規模は南北約60メートル、崖端城であるから北方は平坦地が続いていた。また二の丸、本丸の土居は約2.5メートル以上の高土居で上面が武者走りになっていた。二の丸土居は追手虎口の東で南に折れ、本丸堀切りに接する部に虎口を構成していた。現在二の丸の外堀、高土居ともにほとんど失われている。
 本丸堀切りの長さは約120メートル、東部に顕著な「折」が設けられ、そこに本丸虎口があった。本丸の土居、外堀の保存状況は良好である。
 猿ヶ京城の築城年代は分っていない。古文書には加沢記で上杉謙信が猿ヶ京の名を付けたと言われる永禄3年より10年ほど下った永禄13年の上杉輝虎(謙信)から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出である。天正6年にいったん北条方の手に渡ると天正8年に真田方の海野輝幸により北条方の知高左馬之助義隆が降伏し真田昌幸が領主となった。真田昌幸から同年5月4日に中澤半衛門に宛てた感状に「猿ヶ京三の曲輪焼払之條、忠節無比類候」とある。このように猿ヶ京城は上杉氏、北条氏、真田氏と領主が変遷した。江戸幕府は寛政年間に猿ヶ京に三国街道の関所が設置し、関東日本海側の境界を守る猿ヶ京はその役割を終えた。

           平成27年 みなかみ町観光協会新治地区会

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縄張図が載っているのが、ありがたいですね。

まず主郭の様子です。ホテル湖城閣です。

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周辺には土塁の痕跡らしい高まりがありました。

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この城の見所はその主郭の前の内堀でしょうか。

西側にのびる空堀です。「上杉謙信宮野城址内堀」と案内がでています。

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ホテルへの道は土橋状にはなっていますが、後世的なものでしょう。

こちらは東にのびる空堀。こちらの方が見応えありますかね。先には赤谷湖の水が見えます。

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この内堀より外にも空堀のラインが認められます。西の方へ踏み込んでみると割と遺構っぽい地形が残っています。

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また反対に東側の建物の裏をのぞいてみると、こちらにも空堀の痕跡が感じられました。

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このような外堀の案内もありましたが、こうしてみるともう少し外寄りに外堀はあったようです。

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が、それにしても二重の空堀に守られた城であったのでしょう。

今はちょっとした隙間から赤谷湖が見えます。

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突端に位置するのがわかります。

赤谷湖は相俣ダムのダム湖で、往時は水などなく崖に面していたのでしょう。その感じは、歩いているとよくわかります。いい写真が撮れなくて残念ですが。

この地方に多いという崖端城であることがわかる猿ヶ京城でした。

(こちらは国道17号線沿いの猿ヶ京関所資料館です。)

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1144梶谷城(長崎県) [城印象記]

長崎県松浦市今福町東免字城山の梶谷(かじや)城を紹介します。

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国道204号線を曲がって城に近づきますが、幅の広い道が通っているので安心して訪ねやすい山城のひとつでしょう。要所に案内もあります。

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道の先に大きな駐車場もあります。トイレ・休憩所・案内板などもあり、梶谷城の評価の高さを感じます。

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ここから歩いて登ります。5分ほどで副郭に到着します。

目を瞠るような石垣が出迎えてくれます。

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その前に碑や案内板がありました。

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  松浦党梶谷城跡(まつらとうかじやじょうあと)

 梶谷城は、松浦党の初祖源久公が築城したと伝えられており、築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。
 いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。
 城は山頂部を楕円形に削平して主郭とし、南側に一段高くなった天守台跡がある。主郭の北側には、西側の大手門からのびた長さ18m、高さ5mの城壁がめぐらされている。大手門は石垣を枡型に配し、門の南側に櫓跡がみられる。主郭の北側には、一段低くなった副郭が配置されている。城の西側50m下位には山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、石壁・石塁・門などが残っている。
 梶谷城は、松浦党発展の跡を探るうえにきわめて重要な城跡であります。

                  昭和46年 長崎県指定史跡
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遊歩道に沿って進みます。

こちらは主郭前の曲輪です。

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縁は登り石垣のような石塁が見られました。

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そして、その向こうの斜面には竪堀があります。主郭との境に近いところでしたから、横移動をして主郭下に行かせないためのものでしょう。

草でわかりにくいですね。眼で確認した時は、1mほど掘れた、巾のある窪みを感じましたが、いかがでしょう。

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こういう遺構を見つけると、城そのものの理解も深まるようで楽しいです。

周囲は草生して、薮っています。縄張図があるから見つかるわけで、縄張図を描く人は、すごいものですね。

主郭に到着しました。

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朝のよく晴れた時に訪問できました。遺構もさることながら、ここは眺望も素晴らしい城です。

東隅櫓台からの景色です。

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主郭の奥にはもう一段高くなった天守台がありました。

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ここから眺望です。いいですねえ。

私は松浦一族の歴史は、まだほとんどわかっていませんが、そんなことを考えながら、しばらくぼんやりしていたい景色です。

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整備されてはいるのですが、その後は放置されて草が伸びて少し薮化している状態でした。石垣などの遺構もよく残り、見応えのある城です。こちらは、大手門周囲の桝型です。もう夏も近くなります。どんどん草に埋もれてしまいそうです。そういうものと思いながらも、残念ですね。

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1143針尾城(長崎県) [城印象記]

長崎佐世保市針尾中町の針尾城を紹介します。

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小鯛公民館前から眺めた針尾城です。入江近くの丘に中世山城があります。

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海に比重を置きながら割拠した小領主のこの地方の典型的な城だそうです。

周囲の道は狭く注意が必要ですが、城の背後から近寄れます。分岐するあたりの余白地に停めて攻城開始です。

お墓の横を抜け、まっすぐ進みます。

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藪の先は城です。横堀が迎えてくれました。薮の中ですが、しっかり空堀であることがわかります。

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そしてその土塁の向うも空堀です。二重空堀です。

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空堀は良好に残っているのですが、薮っていて見通しはよくなく写真映えもしないのは残念です。

その先には丸くなった削平地が認められます。

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こちらは主郭でしょう。どうやら単郭のようです。

前面は土塁もなく切り立っているようでした。かなりの落差があるようです。

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また周囲を観察すると石なども見られます。基本は土の城ながら、土留めとして補強に使われたのでしょう。

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城としてはコンパクトです。その分全体を把握しやすく、また薮っているものの遺構は見応えのあるものがあります。

主郭を囲む土塁のラインなどきれいで、うっとりしますね。

いいお城でした。

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