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1160猿ヶ京城(群馬県) [城印象記]

群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京の猿ヶ京城(宮野城)を紹介します。

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国道17号線に猿ヶ京関所資料館があります。ここを南に曲がり進んだところが猿ヶ京城です。奥まで進むと湖城閣というホテルがあります。ここが主郭です。

その入り口に案内板が立っていました。

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   猿ヶ京城址の由来

 猿ヶ京城址は三方を崩れやすい岩の崖で囲まれ、現在は赤谷湖に突き出した半島の先端に位置し、北側を二重の空堀で防御されていた。この地方に多い崖端城と言う形状である。
 全体の規模は東西約180メートル、南北も180メートルの逆三角形で、底辺部が二の丸北側の外堀に当り、西寄りに追手虎口が開いていた。
 二の丸の規模は南北約60メートル、崖端城であるから北方は平坦地が続いていた。また二の丸、本丸の土居は約2.5メートル以上の高土居で上面が武者走りになっていた。二の丸土居は追手虎口の東で南に折れ、本丸堀切りに接する部に虎口を構成していた。現在二の丸の外堀、高土居ともにほとんど失われている。
 本丸堀切りの長さは約120メートル、東部に顕著な「折」が設けられ、そこに本丸虎口があった。本丸の土居、外堀の保存状況は良好である。
 猿ヶ京城の築城年代は分っていない。古文書には加沢記で上杉謙信が猿ヶ京の名を付けたと言われる永禄3年より10年ほど下った永禄13年の上杉輝虎(謙信)から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出である。天正6年にいったん北条方の手に渡ると天正8年に真田方の海野輝幸により北条方の知高左馬之助義隆が降伏し真田昌幸が領主となった。真田昌幸から同年5月4日に中澤半衛門に宛てた感状に「猿ヶ京三の曲輪焼払之條、忠節無比類候」とある。このように猿ヶ京城は上杉氏、北条氏、真田氏と領主が変遷した。江戸幕府は寛政年間に猿ヶ京に三国街道の関所が設置し、関東と日本海側の境界を守る猿ヶ京はその役割を終えた。

           平成27年 みなかみ町観光協会新治地区会

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縄張図が載っているのが、ありがたいですね。

まず主郭の様子です。ホテル湖城閣です。

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周辺には土塁の痕跡らしい高まりがありました。

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この城の見所はその主郭の前の内堀でしょうか。

西側にのびる空堀です。「上杉謙信宮野城址内堀」と案内がでています。

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ホテルへの道は土橋状にはなっていますが、後世的なものでしょう。

こちらは東にのびる空堀。こちらの方が見応えありますかね。先には赤谷湖の水が見えます。

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この内堀より外にも空堀のラインが認められます。西の方へ踏み込んでみると割と遺構っぽい地形が残っています。

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また反対に東側の建物の裏をのぞいてみると、こちらにも空堀の痕跡が感じられました。

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このような外堀の案内もありましたが、こうしてみるともう少し外寄りに外堀はあったようです。

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が、それにしても二重の空堀に守られた城であったのでしょう。

今はちょっとした隙間から赤谷湖が見えます。

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突端に位置するのがわかります。

赤谷湖は相俣ダムのダム湖で、往時は水などなく崖に面していたのでしょう。その感じは、歩いているとよくわかります。いい写真が撮れなくて残念ですが。

この地方に多いという崖端城であることがわかる猿ヶ京城でした。

(こちらは国道17号線沿いの猿ヶ京関所資料館です。)

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